達身寺|悠久の歴史を経て語りかける仏像たち


達身寺(たっしんじ)

みどころはいかに!?

カタクリの花(4月ごろ)
水仙の花

兜跋毘沙門天
阿弥陀如来
などなど数多く残る仏像群

どんなお寺!?


山号 

十九山(じゅうくさん)

宗派 

曹洞宗

本尊 

阿弥陀如来

創建 

不詳

開山 

行基菩薩

拝観料 400円

駐車場 あり
トイレ あり

住所 

兵庫県 丹波市氷上町清住259

丹波正倉院と言われる所以

なぜか!?

平安時代初期~鎌倉時代にかけての
仏像が多数納められている事から丹波正倉院と呼ばれる。

寺伝では奈良時代の仏像も存在するので

時代の幅がかなり広いのが特徴。

なぞ多き仏像群

80体近い仏像が宝物殿に祀られています。

且つ凄いのが

国定重要の指文化財が12体
県の指定重要文化財が34体

という数の多さ・・・

また、兜跋毘沙門天が16体
如来さんや菩薩さんも同種が多く存在します。

特に観音さんに関しては腹部が膨らんだ特徴があり

達身寺様式と呼ばれています。

更に謎を深めるのが未完成とわかるような仏像
も存在します。

大半が一木造りの仏像ですが

寄木造の破片もかなり残っていまして

経年で破片化してると言われています。

お寺の歴史

行基さんによる開山と伝えられていますが

明智光秀丹波攻めの際に

焼き討ちに遭い

焼失と共に古文書も失われ詳しいことはわかりません・・・

かなり大きい大寺院であったとされています。

その折に仏さんを山あいの谷に

緊急避難させたと言われています。

しかし・・・・

時代と共に忘れちゃったみたいで

後の世に疫病がめっちゃ流行り
拝み屋さんの様な方に疫病の終息の
(当時は病院やお医者さんとはいきませんもんね・・・)

お願いしたところ

谷に放置された仏さんの罰である!!と言われ

谷に行くと沢山の仏像を発見!

この仏さん達を

祀るお堂を建立するに至り『達身堂』と名付けられたそうです。

このお堂が現在地に移り

『達身寺』曹洞宗のお寺として再出発にいたりました。

これが1712年のお話です。

謎多き仏像の方々

(写真撮影ができないのでHPより拝借しました)

第一収蔵庫


もはやちょっとした小学校のような感じです。

大小様々の仏さんがおられます。
形をとどめているのはほぼ一木造の仏像です。
よく見ると神像や光背の化仏の様なものも見当たります。

第二収蔵庫


こちらが達身寺のご本尊。
鎌倉時代の作で唯一胎内に記述があった仏像です。
ただ作者ではなく発願者の名前であると推測されているそうです。

『ミヤケ 建久3年』だったような記憶があります
(間違ってたらすいません・・・)


達身寺で最古といわれている仏像
唯一お顔が大陸伝来の様な顔をされていています。

寺伝では行基さんの作とされています。

しかもこのサイズで一木造なんです!

一木造のお地蔵さん

達身寺の人気投票ナンバーワンの仏像です。

こちらがポッコリお腹が特徴の観音さん

子授けの御利益があるそうで

参拝された方が無事子供を
授かったというお話もあります。

謎を深める達身寺様式の観音さん

こちら兜跋毘沙門天

西村公朝さんが修復されこのお姿になっています。

他にもゴロゴロと毘沙門天さんがおられます。

謎多き仏像達の諸説

これだけの本尊級の仏像と大小様々な仏像たち
来歴に関しては諸説があります。
どれもありそー---な感じなんですが古文書などなく
裏付ける証拠はありません・・・

大きく3つの諸説に関して紹介します。

丹波仏師の工房説

未完成の仏像や神像そして
本尊級の仏像が多数から丹波仏師の工房

であったのではないかと言われています。

丹波仏師快慶』

丹波仏師の工房説を裏付けるような話

実は東大寺の古文書に

丹波仏師快慶』という記述があるそうです。

仏師の世界ではゆかりの地名を付けるそうなんですが

達身寺と繋がりがあるか
どうかはわかりません・・・・

興味深すぎー------


平家の南都焼き討ちの後に

重源上人を先頭に再興が始まりますが

その際に重源上人が

丹波仏師を引き連れて南都へ向かったという話もあります。

そうなると『丹波仏師快慶』の話と合っちゃいますよね。

でも裏付ける証拠はありません・・・・

これが丹波仏師の工房説になります。

客仏説

丹波市には古刹が多く存在します。

多くは七堂伽藍の寺院であったそうで
恐らく僧兵を抱える強大な寺院であったと思います。

山あいに囲まれているので

独自の仏教文化および
寺院勢力が栄えていた可能性もあります。

また丹波市丹波の国と呼ばれ
山に囲まれた難攻不落の要地とされていました。

土地は肥沃で鉱物は取れる

作物は沢山とれるほぼ完璧な国でした。

なので明智光秀さんは丹波攻めに

一度失敗しており二回目に大軍を動員して

やっと丹波の国を平定しました。

この様な背景と
本尊級の仏像及び小さな仏像がある背景とを考えると
戦火を逃れる為に達身寺に避難させたのではないか?
とも言われています。

これが客仏説になります。

出雲侵攻説

戦国時代の初期か中頃か
それより少し前かの話だそうですが

西国の出雲の国が近畿地方に向けて
大侵攻を始める機運があったそうで
西国の脅威から守るために戦の仏さんである

兜跋毘沙門天を大量に作って
祀り仏さんの力で侵攻を防ごうとした

とも言われています。

(後に出雲が侵攻してくることはありませんでした)

なんせ一寺に一体と言われ
楼門に祀られる兜跋毘沙門天がかなりの数
残っているのでなんらかの理由があると個人的にも思います。

ただ出雲侵攻説も裏付ける証拠はありません・・・

最後に

ロマン・ロマン・ロマンばかりのミステリアスなお寺

一体一体の仏像さんが語りかけ来るものは何なんでしょうね~~

それを感じるとますます興味が湧くロマンが尽きぬお寺です。

色んな説はあるけれど

現に我々の前に沢山の仏さんがましますというのが真実ですね

近くに来られた際は是非一度お参りされてはどうでしょうか~??


hy2600.hatenablog.com


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